2015年01月31日

赤信号で止められるのは運が悪いから?

赤信号

自転車に乗って街に出かけ、赤信号で止まっているときにふと思いました。赤信号で止められることって、運が悪いことなのでしょうか?

「私って運が悪くて、車を運転しているといつも赤信号で止められるのよね」とか愚痴を言う人がいます。他の人が運転しているときは青信号が多くてスムーズに進めると感じているわけです。

急いでいるときに限って赤信号で止められたりすると「運が悪い」と感じることもあるでしょう。急いでなくてもなぜか赤信号だと運が悪いと思うことは多いかと思います。本能的というのか、習性的というのか、人間は移動中に止められるということが不愉快なのかもしれません。別にカーレースやマラソンをしているわけじゃないのですが……。

ものは考えようだとは思いますけどね。ちょっと一休みできると思えば赤信号で良かったと言えるかもしれません。もしかしたら、ここで止まっていたから事故にあわずに済むということもあるかもしれません。必ずしも赤信号だから運が悪いというわけじゃないと思うんですよね。

自分が通るときはいつも赤信号だと感じるのも、実は単なる心理的なトリックのようなもので、嫌なことや珍しいこと(レアケース)などが起きると記憶(エピソード記憶)に残りやすいというだけのことだったりします。青信号で素通りするときは何も(少なくともストレスは)感じないことがほとんどでしょうからね。

もちろん、要領よく赤信号を避ける知恵を身に着けている人もいるでしょうから、そういう人は赤信号で止まることも少なくスムーズに目的地に向かうことができるかもしれませんが、そういうのは運の良し悪しではなくて賢いだけですからね。

同じように自分がいるときは必ず雨になるとか言って、雨男・雨女などという言葉を使うこともありますが、この場合もたまたまそう感じているだけのことなんですよね。理屈はわかりきってるのですが、なぜか未だに「自分は雨男なんだよ」とか主張する人がいるのはなぜなんでしょう? そういう特別な存在だと思われたいんでしょうかね。

赤信号の話に戻りますが、止められても運が悪いなんて思わなくてもいいんじゃないかな。悪いのは自分の気分であって、運の良し悪しは関係ありませんよね。あなただけが特別に悪い運勢のもとに生きているわけではないのです。

ありのままを受け止めて、「これでいいんだ」と思えば、ストレスのもとを一つ減らせて幸せに一歩近付けますよ。


.

posted by アポロ at 18:48 | Comment(0) | TrackBack(0) | スピリチュアル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2013年11月19日

小さな悩み

天気、晴れ。室温、11度。日に日に寒さは増しています。

朝起きて、いつもの習慣で洗面台の前に立ち、水道の蛇口を見つめるのですが、そこに手を伸ばすまでに毎回ほんの一瞬心の中で葛藤があります。

顔を洗うべきか否か……。

冷たい水で顔を洗うのが苦手です。このまま洗わないで一日過ごしてしまおうかと思ってしまうこともあります。

でも、やっぱり、朝起きてすぐに顔を洗うことで目も覚めるし、さっぱりして気分もいいはず……

どうするの? 洗うの? 洗わないの?

そんな小さなことで毎朝悩んでいます。

その迷いは、朝から苦々しいストレスで自分を攻撃するのです。

私は自分に言い聞かせました。

そんな小さなことで悩んでいてどうする!

何も考えずに、とにかく顔を洗え。

顔は洗うのだ。

そう考えれば、あとは、覚悟を決め、それにいかに耐えうるかを考えればいいだけです。

蛇口をひねり、ほとばしる冷水を両手ですくい、顔面にたたきつけ、こすりつけます。

ぬれた顔をタオルでふき取るころには気分は爽快で、活力も湧き上がってきます。今日も一日がんばれそうなポジティブな気分になってきます。

何かをするかしないかで悩むことはストレスになるだけで何もよいことはありません。とにかく「する」と決めてしまえば、悩むことの辛さからは解放されるのです。迷いがなければ失敗の可能性も低くなるので、良い結果を招きやすくなります。

悩むことが習慣になっている人は、成功の機会を失いがちだともいえるでしょう。豊かな人生を送るためには、悩みを手放す習慣が必要なのだと思います。


.

posted by アポロ at 16:39 | Comment(0) | TrackBack(0) | スピリチュアル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2013年11月09日

いつでもそこにある感動〜オーロラ色の輝き

空-2012年9月10日

この写真は去年の秋ごろにたまたま見かけた空を携帯のカメラで撮影したものです。空に広がる白い雲の筋が、なんとなくオーロラに似ているような気もしました。

私は本物のオーロラは見たことはありませんが、その輝く光の幕はもっと色鮮やかで、さぞや美しいことでしょう。極寒の地でなければ見ることができないという思いが人々のオーロラに対するあこがれをさらにかきたてているのかもしれません。

でも、極寒の地に行かなければそのような感動的な光景を見ることができないわけではありません。

私たちのごく身近な日常の中にも、それはあるのです。

ただ、多くの人はその美しさを感じることのできる こころの目 を失ってしまっているだけなのではないでしょうか。

感動はすぐ目の前にいつでもあるのに、手の届かない遠い世界に夢を見てしまう。そこにしかそれはないと信じてしまっている。

そんな人生は不幸だと思います。

日常の何気ない風景の中に感じるオーロラ色の輝き。こころの目を見開けば、きっと見えてきます。

あなたも探してみませんか。

それは、いつでもそこにあるのです。

日常の風景

幸せな人生というものは、どこか遠くにあっていつか手に入れられるものではなく、いつでもあなたの目の前にあるではありませんか。手を伸ばせば、いつでもそれはあなたのものです。


.

posted by アポロ at 00:35 | Comment(0) | TrackBack(0) | スピリチュアル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2013年08月16日

なぜ生きるのか

散歩中に数匹のトンボを見かけました。緑の穂をつけ始めた稲の水田の上を、トンボたちはすいすいと戯れるように飛んでいました。

そんなトンボを見ていてふと気づきました。

「生きるって、こういうことなんだな。」

ここ最近ずっと頭の隅にあった疑問の答えを得られたような気がしました。

命あるものは、なぜ生きるのか?

そんな疑問を、人であれば思うこともあるでしょう。そんなことを考えるのはヒトという生き物くらいだと思うかもしれませんが、知能の高い猿やイルカ、鳥類くらいならそのくらいのことは考えるかもしれません。そして、その答えを自分なりに見つけ出して生きてゆくこともできます。

では、もっと小さな昆虫やアメーバのような原生動物は、何のために、何を目的に生きているのでしょう? 彼らが生きる意味を考えることなどあるでしょうか。

人の血を吸う蚊が何のために生きているのかと考えたことがあります。彼らはわざわざ人間に不愉快な思いをさせるために生きているとは思えなかったのです。

人の血を吸おうと思えば自分もまたその身を危険にさらすことになります。人間に殺されるかもしれないという大きなリスクを覚悟しなければなりません。花の蜜を吸うのとは違うのです。

彼らはこの世に生を受けると、幼生のボウフラとしてしばらく水の中で過ごします。他の動物のエサとなったりして多くが命を落としますが、生き残ったボウフラは変態して成虫の蚊となり空に飛び立ちます。

そして、この広い世界で異性と出会うと交尾をし、オスはすぐに死んでしまいます。交尾を終えたメスは子を産むための栄養を摂取するために、栄養価の高い動物の生き血を求めてさまよいます。

蚊取り線香の煙をかいくぐり、ヒトの血を吸い、叩かれ潰される前に飛び立つことができれば、子を産むことができます。命は、次の世代に受け継がれるのです。

それが、蚊の一生であり、過去何万年も、あるいは何億年も繰り返されてきた命の営みです。

彼らはただこの世に生を受け、血を吸い、死んでゆくだけ。そこに、どんな意味があるというのでしょう? 彼らが生きることで、この地球環境にどんな影響を及ぼすというのでしょう?

人間のように環境を破壊しているわけでも、何かを生産しているわけでもありません。ただ生きているだけなのです。

まるで、生きることそのものが目的であるかのように。

水田の上を飛び交うトンボの姿を見たとき、それはまるで、近所の子供たちが無邪気に遊んでいるかのようでした。トンボに感情があるのかどうかは知りません。でも、その姿はとても楽しそうでした。

「私たちは、この世界で遊ぶために生きているんだ!」

私はそう悟りました。

ここで言う「遊ぶ」とは、怠けるという意味ではありません。例えば「アリとキリギリス」という童話がありますが、まじめに働いているアリに対して、遊んでばかりいるキリギリスと同じような生き方の方が正しいと言いたいわけではありません。

この世に生を受けたなら、その命が、あるいは魂が、求めるままに行動すること。それが「遊び」であり、生きるということなのだと思います。

そこに生まれるのは喜びであり、楽しみであり、幸福感です。小さな蚊の一生の間にも必ずそれはあるはずです。

私たちは何も生産的な活動をしていないというわけではなく、幸福感を生み出すことができます。それこそが、この世界への貢献といえるのではないでしょうか。

インドのあるヨガの行者はこう言ったそうです。

「人生とは聖なる遊び(リーラ)である。」

自分の人生が辛く悲しいことばかりで、生きる意味を見失ってしまったときには、この言葉を思い出すといいでしょう。

そして、自らのソウルの声に耳を傾けてください。そこに希望の光を見出すことができるでしょう。

魂の声が聞こえないときには、タロットプロファイルをヒントにするのもよいでしょう。ソウルカードやパーソナリティーカードがあなたを導きます。

愚者


.

タグ:生命 悟り
posted by アポロ at 22:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | スピリチュアル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2013年07月21日

三度目の正直

思い立ったら即実行などとも言いますが、実際、物事がうまくいくのは三回目くらいの行動です。

何かを思い立ってもすぐには行動せず、少し考える時間を作ります。そのうちまた何かのきっかけで思い出すことがあるでしょうが、二度目も保留にしてもう少し考えます。そして、三度目に思い出すころには十分に考察も重ねられ、無駄のない最適な状態で行動に移すことができるでしょう。

占い師らしく運命論的な観点から言うならば、その人にとって本当に必要な事柄であれば、最初のチャンスを逃しても再びチャンスは訪れます。二度目も逃してしまったとしても、さらに三度目のチャンスが訪れるようならば、それこそその人の人生にとって必要な事柄であると確実に判断できます。

三度目のチャンスは躊躇せずに掴み取るべきでしょう。

一度逃してしまったら二度と訪れないような事柄はそれほど重要でもないのです。くよくよせずに忘れてしまいましょう。

あなたの人生にとって必要なことであれば、それは何度でも訪れます。


.

タグ:ことわざ
posted by アポロ at 20:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | スピリチュアル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2013年04月04日

おやすみなさい

剣の4

 今すぐやらなければならないことや、どうしてもやりたいことがあるのに、なかなかチャンスが巡ってこなくてその思いを実現できず、気持ちばかりが焦ってしまう時があるでしょう。

 何もできずに時間がどんどん過ぎ去って行くことに胸を痛めている人もいるかもしれません。

 そんな時は無理に何かをしようと思うのはやめて、横になってゆっくり休みましょう。

 何もできない時というのは、何もしなくて良い時なのです。同じ時を過ごすのなら、苦痛に耐えるだけの時間よりも、リラックスして心と体を休めるための時間として過ごした方がいいでしょう。

 ある日突然チャンスが訪れたときに、それをしっかりとつかんで行動することができるのは、十分に休養を取った人だけです。ストレスと戦い続けて疲労困憊している人は、いざという時に動けません。

 今のあなたに「やらなければならないこと」があるとするなら、それは休むことだけです。

 体を横たえ、何も考えず、静かに瞑想するように……ゆっくりとお休みください。


.

posted by アポロ at 01:52 | Comment(0) | TrackBack(0) | スピリチュアル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2013年01月21日

憎まれっ子世にはばかる

剣の5

 「憎まれっ子、世にはばかる」……他人から憎まれる人ほど、逆に世間では幅を利かせるというような意味のことわざですね。

 人が世にはばかることは必ずしも悪いことではないでしょう。権力を持って精力的に活躍しているということでもあるでしょうし、こういう人がいるからこそ世の中が動いているわけですからね。世にはばかるということは、長生きするというような意味で解釈してもいいかもしれません。

 ならばもし、あなたが誰かを世にはばからせたい、長生きさせたい思うならば、愛するよりも憎んだ方がいいということでしょうか?

 「人を呪わば穴二つ」などということわざもありますが、この場合は、憎まれた相手は不幸になり、同時に自分も不幸になってしまいます。

 しかし、人を呪った(憎んだ)場合、相手は不幸になることもあるかもしれませんが、世にはばかることもあるわけです。それに対して人を呪った(憎んだ)自分の方は不幸になるだけで、世にはばかることもないでしょう。

 つまり、人を憎んだり呪ったりするような人たちはどんどん自滅してゆくので、結果として、憎まれっ子だけが生き残って世にはばかることになるということなのかな?

 たとえ憎まれても最後に生き残ることが正しい生き方だと言えるでしょうか? それもまた違うと思います。周りの人を不幸にしてまで生き残ることが幸福だとは思いません。

 正しい生き方とは、まず人に憎まれないこと、誰も憎まないこと、そして、何より愛することです。それができれば、もう誰一人として不幸になることなく、世の中は平和になることでしょう。

 もしあなたが誰かに憎まれたり恨まれたりしていると感じたならば、そのおかげであなたは世にはばかることができ、長生きすることができるのですから、その相手に感謝しましょう。

 あなたの大切な人を、愛してください。

 あなたを憎む人に、感謝しましょう。


.

posted by アポロ at 18:47 | Comment(0) | TrackBack(0) | スピリチュアル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2012年10月21日

人生のパートナーに必要なこと

カップの10

 恋愛のテクニックだとか、良いパートナーの見つけ方だとかいった情報があふれる世の中になりましたが、そういった情報を発信する側も受け取る側も、結局は「自分が幸せになること」が目的であって、利害関係や損得勘定でしか考えていないようです。

 なんだか日本人のこころも貧しくなったものだなぁと感じます。

 世の中は不景気で、かといって日本という国が経済的に極貧かというとそういうわけでもありませんが、それでもやはり個人レベルでは毎日生きるのに必死で明日の生活がどうなるかわからないという不安を抱えて生きている人も多いことでしょう。

 そういう時代だからでしょうか。少しでも得をしたい、安く買い物をしたいという価値観が蔓延して、それが人間関係にも影響してしまっているのかもしれません。

 やはり、恋人との付き合いでも損得勘定が最優先してしまって、大切なことを忘れてしまっているような気がします。

 あちこちで紹介されている賢いテクニックを用いれば いい人パートナー も見つかるかもしれないし、恋愛も成功するかもしれません。それらの知識はそれなりに根拠のある物でしょうし、それなりの経験に基づいた情報であるものがほとんどでしょうから、活用すればそれなりにうまくいくものだろうとは思います

 でも、たとえそれで恋愛がうまくいったとしても、たいていの人はその恋に失望し、「もっといい恋があるはずだ」などと思って新しい恋を探し始めることでしょう。

 当然です。付き合う相手がどんな相手であれ、完璧な人間など存在しません。付き合う時間が長くなればなるほど相手の欠点が目に付くようになって、そういった欠点を持たない人間こそが自分の求めるパートナーだと思うようになってきます。そうなったらもう、別れることしか考えられなくなってしまうでしょう。

 損得勘定で人と付き合っているような人間は、そうやって次々と付き合う人を変えて、少しでも「付き合う価値のある人」を求めてさまようことになるでしょう。それでいろんな人から「利益」を得られていれば「幸せな人生だ」と言えるでしょうか? そう信じている人もいるかもしれませんが……。

 人間関係にもいろいろありますから、もちろんそういう損得勘定で付き合うべき相手もいるでしょう。

 しかし、人生のパートナーとして付き合う相手はビジネスパートナーではないし、何かを教えてくれるような師弟関係でもありません。そういった利害関係においては信頼できるかどうかとか、尊敬できるかどうかということも重要かもしれませんが、人生のパートナーに必要なことはそんなことでもありません。そんな風に人を「値踏み」できるなんて思いあがらないことです。

 人生のパートナーに必要なこと。それはただ、「愛すること」だけです。相手に「愛されること」ではなく、あなた自身が相手を愛しぬくことです。

 勘違いしている人も多いようですが、愛とは、相手から得られる利益のようなものではありません。愛とは、そこに生まれるものであり、育てるものです。

 たとえ、神のような愛にあふれた聖者のような人が存在したとして、様々なテクニックを駆使してそのような人と付き合うことができたとしても、その人が持つ「愛」という利益を得ることが目的であったなら、それは決して得られないでしょうし、やはり、失望する日が来て別れることを考えるようになるでしょう。あなた自身が愛する努力をしない限り、愛はどんなに求めても得られません。

 でも、あなたが彼の人を愛し、育む努力をすれば、愛は無限に生まれます。失うものは何もありません。あなたのこころはどんどん豊かになってゆくでしょう。

 愛すること、ただそれだけでいいのです。

 愛だけじゃ生きていけないって?

 そうでしょう。

 愛などなくても人は生きてゆくでしょうし、愛があろうといつかは死にます。

 でも、同じ人生を生きるのなら、愛のある人生を生きたい。

 幸福とは、そういうものではないでしょうか。


.

posted by アポロ at 14:25 | Comment(3) | TrackBack(1) | スピリチュアル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2012年06月29日

霊性の評価について

 ある指導者の霊的なレベルを占ってほしいという相談を受けたのですが、それならまずあなたのレベルはどの程度なのかと聞いてみたところ、その相談者は答えることができませんでした。自分のこともわからないのに他人のことなど評価できるでしょうか。

 精神世界を好む人たちの傾向として、人を霊的スピリチュアルなレベルで評価・判断しようとする人が多いように見受けられます。

「あの人は霊的に優れている」
「あの人の霊性は低レベルだから……」
「後光が差して見える」
「オーラを発している」

などと自分なりに人の霊性を判断し、レベルが高い人を尊敬し、低い人は軽蔑するといったような傾向もあるのではないでしょうか。その判断力を「霊感」と呼んだりもします。

 仮にその判断力=霊感が正確であったとしても、それによって人を評価し、上下のランク付けをしたり、付き合う相手を変えたりするような行為は好ましいものとは思えません。もしそのようなことがあるならば、霊感の強い人の前では常に何かを見透かされているように感じ、自分がどのような評価をされるのかとびくびくと怯えることになるでしょう。私は、そんな霊能者と付き合いたいとは思いません。

 人にはそれぞれ異なる霊性があるのは事実だと思います。それを見極めることは悪いことではないと思いますが、人を差別的に評価するための基準として用いるのは間違いだと思います。

 人の霊性を見極めたならば、それに合わせて自分の霊性も変化させることで良好な人間関係を築くことができるでしょう。それが調和と呼ばれるものであり、精神世界の目指す理想なのだと思います。

 精神世界を好む人たちの多くが勘違いしているのは、霊感を超能力か何かのように特別で素晴らしい力だと考え、それによる超常的な現象や神秘体験を得ることを目的としてしまっていることです。神秘的な体験をすることで一時的な幸福感を得られることから、その麻薬のような快楽に中毒してしまっているのではないでしょうか。霊的に優れている人物を崇拝したがるのも、その快楽を与えてくれる期待感があるからかもしれません。これではいつまでたっても調和など得られるはずもありません。

「あなたの霊的なレベルは今どの程度なのかご説明いただけますか?」

 それを言葉にすることができるならば、その人がそのレベルに到達していることの証明にもなるでしょう。

 ブッダやイエスといったような霊性の高みに到達したような人たちでさえ、私たちに理解できるような人間の言葉でその霊性について語ってくれました。それが彼らのもたらした調和であり、神秘体験の源と言ってもいいでしょう。

 私たちもまた、自分がどのレベルにいようとも、それを人に伝える言葉を持たなければなりません。

 相手がまだ自分よりも低い位置にいると思うのであれば、身をかがめて相手と同じ目線で話せば、あなたの言葉を伝えることができます。

 相手があなたよりも高い位置にいるのなら、その人の霊的なレベルを見極めようなどと思う必要すらありません。その人はあなたの目線まで下りてきて話してくれるでしょう。

 それが、調和であり、
 それが、愛なのだと思います。


.

posted by アポロ at 23:50 | Comment(2) | TrackBack(0) | スピリチュアル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2011年12月27日

横断歩道で手を挙げている少女

昨日、お買い物の帰り道で見かけた光景。

横断歩道で手を挙げている小学生くらいの女の子が一人。信号機はありません。車はたくさん走っています。

もし私が車の運転手だったら、たった一人の女の子のために自分の車を止め、後続の何台かの車も止めるようなことはしないかもしれない。女の子を渡すよりも、さっさと進んでしまえば後続の車が途絶えたところでそのうち渡れるようになるだろう。その方が後続の車に気を遣って気まずい思いをしないで済む。

こんな道で手を挙げている女の子のことがうっとうしいと思うかもしれない。

今通り過ぎた車も、どうせ私と同じような考えで通り過ぎるだろうなどと思っていたら、意外にもその車は横断歩道の前で止まった。もちろん、後続の何台かの車も、そのたった一人の女の子が渡り終えるまで車を止めることになる。

その時、私は自分を恥じた。今、目の前に起きていることの方が正しいことなのだと気づいた。

「道を渡りたい」という意思を示して手を挙げる女の子。それに応えて止まる自動車。当たり前のことじゃないか!

なのに、「通り過ぎてしまえ」などと思っていた自分が恥ずかしい。

女の子は横断歩道を渡り終えると、止まってくれた車に向かって深々と頭を下げていた。その光景にも衝撃を受けた。

そうか! そういうことなのか!

どこまでも自分が愚かに思えて仕方がない。

私は、女の子にとっても、手を挙げて人に何かをお願いするような態度をとるのは恥ずかしいものだと思っていた。でも、そうじゃないんだ。自分が何かをして欲しいと思うなら素直にお願いすればいい。そして、その願いを聞いてもらえたなら、感謝の気持ちをしっかりと示せばいいだけのことだったんだ!

たったそれだけのこと。それだけのことで、女の子も、車の運転手も「よかった」と思える。みんな心が暖かくなって、幸せな気分になれる。

人に迷惑をかけるとか、そういうことを気にするよりも、「人はお互いに支えあい、助け合って生きているんだ」ということに気づくべきだったんだ。

私たちは、たった一人でこの世界に生きているわけじゃない。他の多くの人たちと一緒に生きているんだ。この世界を共有しているんだ。

そんなことを改めて気づかされる出来事でした。

冷たい風が吹く伊那谷で、ほっと心が温まる思いでした。

.

posted by アポロ at 20:54 | Comment(0) | TrackBack(0) | スピリチュアル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする