2018年06月13日

蜂に刺された

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自転車に乗って出かけようとハンドルを握ったら、チクッと人差し指の付け根に痛みを感じて手を振り払った。その時ほんの一瞬、手元から小さな黒い虫が飛び去るのが見えた。はっきり見えなかったので正体は不明だが、たぶん蜂だったのだと思う。ハンドルのグリップと同じ色をしていて気づかなかったのです。

蜂に刺されたようでした。何か応急処置をしないとまずいかなと思ったのですが、せっかくのいい天気。お出かけしたいという気持ちが勝ってそのまま自転車に乗って出かけてしまいました。

痛みがひどくなってくるかなと心配でしたが、意外にも大したことはなく、少しずつ痛みは引いてゆき、刺された痕もほんの直径五ミリ程度の腫れがしばらくの間出た程度で、痛みが消えるとともに痕も消え去ってしまいました。

写真に撮ってネタにしようかとも思ってたのですが……蜂に刺されて腫れあがった手なんて、いかにもインスタ映えしそうじゃないですか。

実は蜂に刺されたことはほとんどなくて、子供のころ以来、三十年以上前にあったかどうかという程度の記憶です。それでも全く経験がないというわけでもないので、蜂に刺されたら死ぬほど痛いという何となくのイメージは持っていました。子供のころはそう感じたのでしょう。ところが、実際にはそうでもなかったようです。

この際、蜂に刺されるとはどういうことなのかをじっくりと味わってみようと思って患部を意識していたのですが、味わうまでもなく消えてしまいました。毒性はそれほど強くはなかったみたいですね。蜂の甘噛みって感じでしょうか。

この程度ならもしかしたら今まで何度も蜂に刺されていたかもしれません。刺されても気づかないうちに治っていたとしても不思議ではありません。そのくらい軽いものでした。

刺された瞬間は電子ライターのカチッとするやつで感電した時のような痛みが一瞬走り、それ以上ひどくなることはなく徐々に薄れていく感じでした。

おそらく蜂の毒にもいろいろ種類があるでしょうから、どんな蜂に刺されても大丈夫とは思いませんけどね。今回はたまたまです。

ところで、今朝はちょっと悲しい出来事があったのです。

話はもう少しさかのぼって一昨日の夜。

それまでツイッターなどでゲジゲジは益虫だなんてことをつぶやいていましたが、そう言いつつもここしばらくは私の部屋の中で見てないなとも思っていました。見かけないとちょっと寂しいものです。

そんな私の思いが通じたのか、寝ようと思ってベッドに入ろうとしたら、枕元にゲジゲジがじっとしているのを見つけました。もう、完全に「私はここにいますよ」とアピールしてる感じです。嬉しくて感激してしまいました。

とはいえ、さすがに枕元にじっとしていられるのも気持ち悪いとは思いましたが、せっかく出てきてくれたのでしばらくその様子を観察していました。体長八センチくらい(ひげも合わせると十五センチくらいにはなるかな)のほぼ最大級と思われる巨大で立派なゲジゲジです。放射状に広げられた無数の足はまるでクジャクの羽のようでもあり、とても美しく、神々しくさえ見えました。後光が差した観音様のようにも感じられました。

いくら眺めていてもピクリとも動かなかったのですが、私がちょっと目を離した一瞬の隙にどこかへ姿をくらませてしまいました。

虫にも動物みたいな感情があるのでしょうかねぇ。人間と目が合っているうちは動けなくて、目をそらした瞬間に動き出すなんてね。蛇や猫みたいです。

我が家のゲジゲジも元気にやってるようだし安心だと思っていたのですが、今朝になって、そのゲジゲジの水死体を発見してしまいました。

昨夜からキッチンの水場に放置してあったボールに満たされた水の中に落ちていたのです。どうやったらこんなところに落ちて死ぬのか不思議なくらいでしたが、なぜかそこで死んでいたのです。

いつもなら寝る前に洗い物は全部片づけておくのですが、昨夜はたまたまめんどくさくて放置してしまったのです。本当にたまたまでめったにないことなのです。でも、そのたまたまの時に限って、なぜかそこに落ちて死ぬなんて……。

私のせいだと思うととても悔しくなりました。ちゃんと洗い物を済ませて寝ていればこんなことにならなかったのに!

死んだゲジゲジは庭に投げて供養しました。たぶん蟻んこやバクテリアなどが分解して土に戻してくれると思います。

合掌して「ごめんなさい」と謝っておきました。

でも、なんだか不思議です。死ぬ直前にわざわざ私の目の前に出てきて挨拶を済ませた後で、わざと入水自殺でもしたかのようです。あんなところにうまい具合にボールの中に落ちて死ぬなんてあまりに不自然だとも思いました。中に人の魂でも入ってたのかと思うくらいです。

そもそも水に落ちたくらいで簡単に死ぬものでしょうか? 多少は浮きそうなものだし、あの無数の足でバタバタともがいたりしてボールのふちにたどり着ければ生き延びれたとは思うのですが。

もしかして、寿命だったのかな。それを悟って、死ぬ前に別れの挨拶を?

それとも……やっぱりあれは、観音様だったのかもしれません。いや、もしかして彼女かも……。何かを伝えに私のところまで来ていたのでしょうか。

それに気づかせるための、蜂の一刺しだったのかも? チクリと刺して、「気づけよ」と言っているような、そんな風にも感じてしまいました。ピザの耳のことなんか書くなよ〜」みたいな。彼女ならやりそうです。


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2018年06月08日

月明かりのない夜の散歩

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真っ暗闇の夜の田んぼ道をお散歩。今日は半月のはずですが、深夜には隠れてしまって見えませんでした。

月明かりのない夜道は闇に溶け込み、真っ黒に染まって全く見えません。両脇の水田がぼんやりと白く浮かび上がっています。田んぼ道なので通り道には街灯などはありません。数百メートル先にぽつぽつと見える街灯の光がまぶしく見えるくらいです。

水田には植えられたばかりの小さな苗が並んでいるのが見えます。その隙間の水面を見ると、光の点がぽつぽつと見えます。夜空の星の光が映り込んでいるのです。

小さな星の光でも水面に反射して見えるんだな……不思議な感覚でした。

たまに夜中に散歩に出かけるときはたいてい月が明るく輝いているときだったので、こんな風に星が水面に映りこむことがあるなんて気づきませんでした。珍しいことでもないのかもしれませんが、月のない暗い夜だからこそ気づけたのだと思います。

夜道も照らせないような小さな星の光でも、水面に反射して私の目に届いている。ふだん直接夜空を仰いで見る星とはまた違ったものに見えました。その光は数億光年、数十億光年先にある、数億年前、数十億年前の輝き。そんな光がほんの数メートル先の水面に物理的に反射して私の目に飛び込んでくるなんて、何とも不思議な感覚です。時空を超えた途方もない奇跡的な現象が、日常の物理的な現象として感じられるような、そんな感覚。

そよ風すら感じられない完全に無風の夜。梅雨入り前ですが、少し蒸し暑く感じました。蛙の鳴き声だけが静かに響いています。

しばらくすると、闇に目が慣れてアスファルトの道のわだちが白く浮かび上がってきました。月が照らさなくても見えるようになるものなのですね。光源はきっと、あの数十億光年先から届く星々の光なのでしょう。

この世界に、完全なる闇などないのです。

帰り道。目の前を大きな流れ星が太い筋を引きながらゆっくりと落ちていくのが見えました。


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2018年03月16日

ヨーグルトココアの作り方

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ココアとヨーグルトを混ぜて飲んでみようなんて誰が思いつくだろうか?

冷蔵庫にヨーグルトが一つあった。ダノンのプレーン・加糖。

ヨーグルトを冷たいまま食べると体を冷やしてしまう。今の時期はできるだけ避けたい。

以前、ヨーグルトを鍋で加熱してみたことがあるが、不思議なことにほとんど透明の液体になってしまった。実は市販のヨーグルトの大半は薄めた牛乳を寒天で固めたヨーグルト風のゼリーみたいなものなのだ。濃厚だと思っていたのは寒天によるもので、加熱すると寒天は溶けて極薄の乳製品の正体が露呈する。詐欺みたいなものだ。

まるで乳清を加熱したような半透明の液体はそのままでは不味くてとても飲めない。

不味さの理由は酸味にもある。熱した牛乳に酢を混ぜたようなものだと思ってみればいい。想像しただけで不味そうである。加糖されているとはいえ、加熱すると酸味が増してしまうのだ。

体を温めるにはホットココアがいい。いつもは森永のピュアココアをインスタントコーヒーのようにお湯で溶いただけのものを飲んでいたのだが、もちろん甘みもなければコクや旨味もあまりない。鍋で加熱すれば香りも立つのだろうけど、カップの中で溶くだけでは香りも立たない。

そこでひらめいた。

たまにはココアを鍋で加熱するついでに砂糖とミルクの代わりにヨーグルトを入れてみてはどうだろうか?

問題は酸味だが、こちらには「策」があった。

さっそく試してみる。まずはココアを少量の水で溶いてからお湯を加えて鍋に入れる。そこにヨーグルトを一カップ(85g)入れてかき混ぜて弱火で過熱を始める。

沸騰する前に酸味対策の「魔法の粉」を小さじ半分くらい振りかける。すると、シュワシュワ〜っと泡が立つ。しばらくすると泡が鍋いっぱいに膨らんであふれそうになるのでいったん止めて様子を見てから再び過熱。沸騰するかしないかというくらいのところで火を止めてマグカップに移した。

恐る恐る飲んでみると、予想以上に美味であった。まろやかでコクがあり、程よい甘さもある。ココアのいい香りもする。不快な香りや酸味は一切なかった。

大成功である。

さて、酸味対策の例の魔法の粉であるが、実は重曹である。炭酸水素ナトリウムね。

重曹はアルカリ性なのでヨーグルトの酸味を中和する働きがある。ただし、独特の匂いや苦味が出る可能性があり、普通なら不味くなる。美味しくなるかどうかは賭けであった。

重曹の匂いはココアの香りで消され、コクと苦味は旨味に変わったようであった。酸味はほぼ完全に打ち消され、砂糖の甘味だけが残ったことになる。

体も温まり、美味しく飲めた。大満足である。


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2018年02月22日

落とし物の日

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散歩の途中で路上の落とし物を見つけました。高校生の生徒手帳のようです。中を見ると、電車通学の定期券のようなものが入っています。アルバイトの許可証のようなものもあります。失くすとかなり困ることになりそうです。

最初はその辺に置き去りにして行こうと思いました。そのうち本人が気づいて探しに来るかもしれないので、目立つところにでも置いておけばすぐに見つかるだろうと思ったのです。

しかし、近くに交番でもあるならそこに届けた方が安心だとも思いました。山のふもとの寂れた集落ですが、近くには小学校や郵便局があるのは覚えがあります。なんとなく近くに交番くらいありそうな気がしました。

スマホのマップアプリで検索してみたのですが、どうやら近くには交番はなさそうでした。スマホのマップをこんな風に実用的に使ったのはほとんど初めてといってもいいくらいです。普段は全く使いませんからね。使い方くらいは知ってます。

手帳の中を全部調べてみたものの、本人の名前以外は連絡先となる情報は一切見当たりません。住所も電話番号も LINE ID もありません。本人に直接連絡を取ることは不可能です。

なぜか映画「中二病でも恋がしたい!」の半券が入っていました。何でこんなものを大事に取ってあるんだ?

唯一の手掛かりは高校の名前だけでした。そこで、グーグルさんに聞いてその高校名で検索すると、高校のホームページが見つかりました。ホームページを見るとトップページの一番上のわかりやすいところに電話番号が書いてありました。まさに「電話してくれ」と言わんばかりです。

さっそくその高校に電話してみました。スマホのスカイプを使いました。スカイプは月額プランを利用しているので、毎月75分間の無料通話が使えます。固定電話に掛けるなら通話料金はかかりません。

事務の人に生徒手帳を拾ったと伝えると教頭先生と代わってくれました。こちらまで取りに来るというのですが、私の家の住所を教えたりするのも面倒です。

そこで、生徒手帳を拾った場所のすぐ近くに公園があったので、その公園のベンチの上に手帳を置いておくと伝えました。教頭先生が取りに来るというならそれでもいいし、おそらく近くに住んでいるであろう落とし主の本人に伝えれば場所もわかるしすぐに取りに来るだろうと提案しました。

「お礼はいいから」と言って電話を切りました。

田舎の公園なのでほとんど人は来ません。もし誰か来て手帳を見つけたとしても、地元の人なら親切に届けてくれる可能性の方が高いでしょう。

小さな公園の中には目立つ東屋が一つあり、その中のベンチの端っこの方に生徒手帳を置いて帰りました。中央のテーブルの上だと風に飛ばされそうだったからです。端っこの方でも探せばすぐに見つかる場所です。

公園の東屋.jpg

ちょっといいことをしたなと、自己満足ではありますが気分良く帰りました。普段はミュージックプレーヤーとしてしか使っていないスマホを本来のスマホらしく活用できたのも良かったと思いました。

家に着き、玄関のドアを開けようとして鍵がないことに気づきました。まさか? と思ってあちこちのポケットの中を調べてみたのですが、どこにもありません。どうやら、どこかで落としてしまったようです。

エェェーー!

焦りました。

なんと、今度は私自身が落とし物をしてしまったようでした。人の落とし物を拾って人助けをしたのだから、少しくらいいいことがあってもいいのになんて思ってたら、逆に自分が落とし物をするなんて……ついてないなぁ。

来た道を戻ると、幸い道端に落ちている鍵を発見することができました。こういう時はやっぱり、誰かが余計な親切で拾って交番に届けようなんて思わずに、そのまま道端に放置しておいてくれた方が助かると思いました。気づいた本人が慌てて戻ってくるなら、その方が早く見つかるかもしれませんからね。

ともかく、なんだかよくわからない落とし物の日でした。


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2018年02月10日

それでもペットを飼いますか?

aibo.jpg

最近またソニーの犬型ロボットのAIBOがリニューアルしたとかで話題になっていましたね。

ツタヤのセルフレジの話から、かつてのSF作家などが思い描いていた近未来の理想としての機械化されてゆく世界を連想して虚しいと感じたりもしました。

同様にペットですらロボット化されている現状を批判したりもしましたが、それが必ずしも悪いことだとは言い切れません。むしろロボット化してしまった方が好ましいのではないかとすら思うこともあります。

私は今はペットを飼っていませんが、動物が嫌いというわけではありません。動物は好きな方で、YouTube とかでもよく動物の動画を観たりします。かわいい動物を見ると「飼いたい」と思うことはあります。でも、実際に飼うかと言われたら私は拒否すると思います。動物を「飼う」という行為がどうしても許せないのです。

犬や猫をペットとして飼っているほとんどの人たちがペットを人間の家族同然に思い、大切に扱っていることはよく理解しています。でも、どんなに大切に扱っていようともペットは彼らの「所有物」として扱われていることには変わりません。ブランド物の時計やバッグや高級車やスマホを大切に扱うのと同じなんです。それを失うことは悲しいから大切に扱うのでしょう。動物たちの立場で彼らの命の尊厳を大切にしようと思っているわけではなく、あくまで「自分の感情」が基準で大切にしているにすぎません。それは、見方を変えれば動物虐待とも言えるのです。人間の都合で動物たちの自由を奪っているわけですからね。

犬や猫であっても本来は人間に飼われることなく自由に生きるべき存在です。それを人間の都合で拘束して彼らの社会(自然界)から隔離することが正しいことであるはずがありません。

生き死にすら人間にコントロール(生殺与奪)され、ペットショップで売買される。野良犬・野良猫は捕獲され殺処分されることすらある。これって、かつては人間同士の間で行われていた「奴隷制」や「侵略行為」と同じですよね。そんな風に人間を「物」として扱っていた時代もありましたが、今ではそんなことは許されません。

今でも動物なら奴隷(ペット)のような扱いをしても許されるのかというと、私はそうは思いません。自分が飼うペットを人間の家族同様だと主張している人たちならなおさらでしょう。ところが、実際にはその主張と現実には大きな矛盾があるのです。ペットとして飼うこと自体が奴隷であり、虐待でもあるのですから。

もちろん自然界でも「共生」という生き方もあります。人間と犬はほぼ共生に近い信頼関係を数千年という時間をかけて築き上げてきましたが、それはあくまで犬たちにも彼らの自然界で生きる自由が許されていればの話です。彼らに首輪を付けて飼うことになった時点で「共生」は「強制」に変わります。対等な存在ではなくなってしまうのです。

野良猫の多くは人間と共生しているとも言えます。人間の捨てた残飯をあさり、時には家の中に入り込み飼い猫のふりをしたり、気まぐれでよその家に行ったりもする。でも、人間が彼らの自由を奪い、自分の家の中だけで飼いだした時点で「共生」は「強制」に変わります

人間が他の自然界の存在と共生することは素晴らしいことだし、本来であればそういう生き方をすべきだとは思いますが、人の都合だけで彼らの自由を奪ってペットにするような利用の仕方は決してすべきではありません。人間は神ではないのです。

捨て犬や捨て猫を拾ってきて飼うのはまだいいと思います。彼らの命を救ってあげているわけですからね。一緒に暮らしているうちに家族として受け入れるようになるのは良いでしょう。

どうしても許せないのは、ペットショップなどから買ってくることです。売買している時点で「物」扱いであり、奴隷扱いですよね。知り合いなどから譲り受けるのも同じことだと思います。お金で取引されなければ罪はないというわけではありません。彼らを「物」として扱っている時点で罪なのですから。生まれたばかりの人間の子供を親以外の人間が勝手に取引するようなことが許されますか?

テレビに出ているアイドルを見て「可愛い」と思っても自分のペットにして飼うことは許されませんよね。動物も同じだと思いませんか?

いくら愛情をかけて育てようとも、結局は人間の方が「自分が癒されたい」という思い(完全なるエゴ!)で「買う」のです。風俗で女の子を指名したり、ホストクラブでホストに大金をつぎ込むのも同じことかもしれませんね。でも、人間同士の場合はお互いの同意の上であれば問題はないのです。相手が動物の場合は、人間は動物の都合など考えずに自分の都合だけで飼います。だから許されないのです。自分の意志で反抗することもできない子供に虐待するようなもので、フェアではない分、罪は重いと言えます。

ペットの立場を人間で例えるなら、ある日突然刑務所に入れられるようなものだともいえます。ペットは飼い主と一緒にいることが幸せだ思う人は多いと思いますが、刑務所に入れられた受刑者が幸せだと思う人はいるでしょうか? 実のところ、受刑者だって刑務所の中で常に不幸な思いでいるわけではありません。刑務所の中で受刑者なりの楽しみを持ち日々を過ごしています。楽しみを見出さなければ辛くて生きていけませんからね。動物たちも同様で、飼い主の前では「幸せなふり」をしているだけかもしれません。確かにそういう生き方もある意味では幸せだともいえるのですが、幸せならば受刑者同然の生涯を無実の動物たちに強いることが許されるとでもいうのでしょうか? 受刑者は大半がいつかは娑婆しゃばに出られますが、死ぬまで自由になれないペットはもっと不幸と言えるかもしれません。はっきり言えば、ペットとは「終身刑」ですよ。

それでもペットを飼いたいというのなら、人が作り出したロボットのペットを飼えばいいでしょう。ロボットなら人間の都合でどんな扱いをしようが罪にはなりません。昔流行った「たまごっち」やテレビゲームの「シーマン」のように飼育系のゲームでもいいでしょう。最近ならセカンドライフのような仮想世界の中で仮想ペットを飼うこともできます。スマホのアプリにはそれ系のものは結構あるんじゃないかな?

こんなことを言うと「SFの世界(近未来の現実世界)ではロボットにも(人権に相当する)権利がある」などと言い出す人も出てきそうですけどね。漫画や映画の世界ではそういう設定もよく見かけますが、そんなことを言う前に、まずは命ある存在である目の前の動物たちの尊厳を守ってあげてほしいと思います。それすらできない人間が魂のないロボットに権利を与えるなどありえません。


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2017年10月27日

報われない努力もある

本

努力」という言葉が物議を醸すことがたびたびあります。最近はこの言葉にネガティブな印象を持つ人の方が多いみたいですね。

「努力は報われる」とは昔はよく言われていたものですが、今では「努力しても報われない」と考える方が常識になってきているかもしれません。

三十年くらい前、まだ私が小学生や中学生の頃は「努力」は誰もが認める美徳でした。習字で書く言葉の定番でしたね。努力すれば褒められるし、努力した者が正しいとずっと教えられてきました。私もそう信じていました。まあ、頭でわかっていても実行することはなかなかできなかったわけですが……

二十五年ほど前、確かあれはフェリーの中で観た洋画……当時私は自衛官で、自衛隊の駅伝部みたいなものに所属していて一応実業団の選手という感じで毎日長距離走の訓練をしていました。その合宿でフェリーに乗って北海道に移動したりすることがたびたびあったのです。その時船内で流していたビデオだったと思います。たぶんロビンフッドとかそんな感じの映画でしたが、その中の戦いのシーンで、ある人物が仲間に言った言葉が印象的でした。

「報われない努力もある。」

頑張っても勝てないいくさもある。でも戦うんだみたいなことを言っていたのでしょう。たとえ負け戦でも最後まであきらめず努力するということです。

当時の私は駅伝の選手になるために死にものぐるいで合宿のメンバーと競い合っていました。フェリーの移動中ですら狭い船上で何時間も走ってトレーニングを続けたほどです。そんなさなかに観た映画のセリフでした。

いくら頑張っても勝てそうにない全国レベルのライバルたちの中で折れそうになっていた私の気持ちを、そのセリフが支えてくれたような気がします。勝てないかもしれない。でも、最後まであきらめずに頑張ってみようと。

私は他のメンバーよりも少しでも多くの時間、少しでも多くの距離を走ることで、その努力はいつか報われると信じて必死になってトレーニングをしました。練習量だけなら他の誰にも負けていませんでした。でも、結局私は最後の大きな駅伝の大会の選手には選ばれませんでした。努力は報われなかったのです。

現実に認められるのは努力ではなく、どれだけ速く走れるかという結果だけです。たくさん努力しただけの人を選手にしたって試合には勝てません。それが現実なんですよね。

努力しなくても生まれつき身体能力に恵まれていて足の速い人もいます。そういう人には努力は無用かもしれません。でも、そんな天才に勝つためには、我々凡人は死ぬ気で努力する必要があります。頑張れば勝てるかもしれません。でも、勝てないかもしれない。でも、勝つためには努力するしかないんです。

だから、努力は必要なんです。

報われるかどうかわからないけど努力することに意味がある。

だから努力は美徳なのでしょう。


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2017年08月09日

真夏の夜のお月見は寒かった

タロットカード: ][ 月

昨夜は真夜中(というか早朝三時ごろ)に外に出てみると、空が晴れ上がっていて綺麗な満月が出ていました。星も輝いています。

昼間は曇りで雨が降ったりもしていたので月見は無理かと思っていたのですが、予想外に晴れてました。

久々にお月見ができると思ってさっそく夜のお散歩に出かけたのですが、昼間と同じ感覚でノースリーブのシャツ一枚と短パンで出てきたらめちゃくちゃ寒かった。

こんなに寒いとは、これもまた予想外。

数日前に夜中に出かけた時は夜でも暖かいもんだと意外に感じていたのに、今度は寒すぎるんです。

夏の夜は不可解です。

歩いているうちに体も温まってくるかと思ったのですが、ほとんど最後までずっと寒いままでした。

散歩のお供は音楽。スマホで聴きます。

曲はベートーヴェンの「月光」。月見散歩の定番です。

レベッカの「MOON」もいいんですけどね。お化けの声が聞こえるということで昔話題になったアレです。

すぐに流れ星が一つ落ちてゆくのが見えました。明るくて大きめで、短めの流れ星。

もっと見れたらいいなと思ったのですが、そう思って空ばかり見上げているのも疲れるので、無理に探そうとはしませんでした。

流れ星って、見ようと思う時には見れなかったりするんですよね。

月を見上げると、晴れた空にギラギラと言っていいほどまぶしく輝いていました。

月ってこんなに明るかったっけ?と思うほど、異常に輝いて見えました。

空が澄んでいたからなのか、夏だからなのかよくわかりませんが。

長時間凝視するのは無理でした。

お月見と言っても、ずっと月を見ていなければならないというわけでもありません。

月の光のシャワーをノースリーブの露出した肩や腕や脛に浴びながら散歩をします。

昼間の太陽のように月の光も肌で熱を感じるものかと意識を集中して全身で月光を浴びてみましたが、さすがに熱は感じませんでした。

やっぱり寒かった。真夏の月の光は不思議です。

月見というのは、そこにお月さんを感じることができればそれでいいんです。

空を見上げなくても、むしろ月光に照らされ明るくなった一面の風景で味わうものです。

月見だからって、月ばかり見なくていい……そういう感じ方は大事だと思います。


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タグ:月見 満月 散歩
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2017年07月12日

「今」を刻んでいますか?

日々の生活の中で、自分自身の体験として積み重ねられてゆく何気ない思い出。そんな思い出こそ大切に、そして忘れないでほしいと思います。

棒の8

今の時代は誰もが無意識のうちに大量の情報にさらされています。見たり聞いたりするつもりがなくても、知らず知らずのうちにどんどん情報が入ってくるでしょう。

スマホの画面にくぎ付けでLINEやツイッターやフェイスブックなどのSNSのチェックを怠らず、分刻み、あるいは秒単位で新しい情報がどんどん入ってきます。そんな新しい情報や友達からのメッセージにさらされていることが快感でやめることができません。情報が遮断されるのは呼吸ができなくなるのと同じで、死にそうになるくらいの禁断症状に苦しむことになりかねません。

それらの情報の大半は記憶に残ることなく、次々と押し寄せてくる情報の波に押し流されて消えてゆきます。新しい情報を取り入れるためには古い情報を捨てなければなりません。人間の記憶容量は無限ではないのです。そこで、外部記憶(ネット)に依存することになります。

沢山の情報が自分の目の前にあるという自覚はあるので、なんとなく自分は何でも知っているというような錯覚をしている人も多いことでしょう。知らないことはスマホでネットにアクセスして(もはやそんな自覚すらないかもしれませんが)検索すればすぐにわかるので、知らないことはない(わからないことはない)と思い込んでいるのです。

人前で「知らない」と言うことが恥ずかしいとすら思っているでしょう。本当は「知っている」というのは「調べればわかる」というだけのことであって、実は「何も知らない」というのが真実かもしれません。

誰もがただ「知ってるつもり」でいるだけなのです。

昔、そんなタイトルのテレビ番組がありました。ほんの十数年ほど前までは、日常のちょっとした疑問をテーマにしたテレビ番組がたくさん作られていましたよね。でも、今はそういう番組が少なくなってきたような気もします。作っても観ないんでしょうね。視聴率が取れないんだと思います。みんなこう思ってますよ。

「そんなこと調べればすぐにわかるよ。」

自分の方が詳しく知っている(つもり)だからテレビなんか観ない。ネット(スマホ)さえあれば幸せ? OK Google とか Siri とかコルタナさんですか。

調べればすぐにわかるし、調べてわかったつもりでいます。でも、そう思えるのはその時だけで、そのような知識は長期記憶として残らずにすぐに忘れてしまいます。記憶として残る前に次の情報が押し寄せてどんどん上書きしていってしまうからです。

そんなことを繰り返しているうちに、いつの間にか自分は「何でも知っているつもりで何も知らない人間」になってしまいます。結局、中身は空っぽなんです。

そんな人生は、ただむなしいだけです。

知らないことは知らないままでいい。わからないことはわからないままでいい。無理に調べようとせず、ただありのままを受け入れればいい。

世の中で何が起きていようと気にすることはありません。今、自分の目の前で、自分の身に起きていることこそが大事なのです。

他人がSNSに載せている料理の写真を見て「めしテロだ!」なんて文句を言いつつ話のネタにするのも楽しいかもしれませんが、そんなバカ騒ぎはいつか虚しいと思う時が来るだけです。思い出に残ることなど何もないでしょう。

そんなことよりも、母親や奥さんが(あるいは旦那さんが)作ってくれた朝食……いつもと変わらないごく平凡な食事であっても、それに感謝してしっかりとかみしめ、味わって食べてみましょう。それがかけがえのない思い出となり、家族の絆となっていつまでも心の奥に残ってゆくのです。幸せな人生とはそういうものでしょう。

一人暮らしだから寂しいだなんて思うことはありません。寂しいと思うのは、自分の生き方にしっかりと向き合っていないからです。他人を見てうらやましいとか、そんなことばかり考えているから寂しくなるのでしょう。

自分一人で作ったご飯とみそ汁だけの朝食だっていいじゃないですか。お米を作ってくれた農家の方に感謝する気持ちがあれば、それだけで幸せな気分になるものです。そういう気持ちを忘れているから孤独で寂しい日々を過ごすことになるのです。

余計な情報を遮断して日々の出来事にしっかりと向き合っていれば、その出来事のすべてが大切な思い出として胸の内に刻まれてゆくことになります。そうして刻まれた沢山の思い出があれば、虚しい人生を過ごすことなど決してないでしょう。


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2017年05月17日

不倫は悪いこと?

タロットカード: 悪魔

ことあるごとにやり玉に挙げられる「不倫」と呼ばれる男女の関係があります。芸能人や政治家、スポーツ選手などの著名人の不倫問題は頻繁にニュースやワイドショーで取り上げられ、たいていは当事者がしばらくの間メディアから姿を消すことになります。どんなに人気のあるタレントでも不倫疑惑をかけられた途端に世間の風当たりは冷たくなります。まるで重罪人扱いです。

不倫よりももっと悪質な行為はいくらでもあるのに、なぜか世間をにぎわすのは不倫の話題ばかりです。おそらく、不倫が悪いというよりも、世間の人々の大半が不倫という話題が好きなんでしょうね。

もちろん不倫が好きという意味ではなく、むしろその逆で不倫は許せない、嫌いだという人の方が多いのでしょうが、そうやって他人を責め立てるのが好きということなんでしょうかね。

政治とか経済とかそういう難しい話よりも、身近に起こりうる恋愛話の方がとっつきやすいということもあるでしょう。

似たような問題に「ドラッグ(大麻)」がありますね。それによって多くの著名人が人生を棒に振っています。こちらは明らかに違法行為なので世間から叩かれるのは当然ですが、それにしても不倫同様に騒ぎすぎだとは思います。大麻なんてアルコールやたばこと同じで嗜好品の一種にすぎません。たまたま法律で禁止されているというだけであって、禁止されていないアルコールの方がよっぽど危険性が高いと言ってもいいくらいです。

でも、いくらなんでも騒ぎすぎですよね。人の不倫なんかどうでもいいじゃないですか。それよりももっと正すべき事柄が世の中にはたくさんあるはずです。そちらに目を向けましょうよ。

私は占い師という立場上、不倫を否定も肯定もできません。もちろんその言葉の意味からいえば「倫理に反すること」であるわけですから「良くないことですよ」と諭すべき行いなのかもしれませんが、そもそも「不倫」という言葉を当てはめることが適切かどうかも疑問です。(この言葉は1980年代のテレビドラマの影響で広まったと言われています。割と最近使われるようになった流行語のようなものであって、そもそも適切な日本語というわけではないのです。)

タロットカード: 恋人

今の日本という国の常識から言えば確かにそれは不倫かもしれませんが、価値観が違う世界であればそれは単なる「恋愛」や「純愛」かもしれないのです。同じ日本人であっても、すべての人に同じ常識が通用するというわけでもありません。その人の生き方はその人だけのものです。だから、占い師は人の恋愛について自分の価値観で勝手に決めつけて導くことなどできないのです。それができるのは宗教家だけです。宗教なら神の名のもとに不動の価値観が確立されているのでそれに従って人を導くことができます。あるいは不貞行為を重罪として裁くこともできるでしょう。

私は人を裁きませんが、正しい道へ導くこともしません。でも、あなたが望むのならば、たとえそれが間違った道(不倫)であろうとも、あなたがとるべき行動を教えることはできるかもしれません。それが、占い師の仕事ですから。

タロットカード: 隠者


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タグ:悪魔 恋人 恋愛
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2017年05月03日

苔むし朽ちかけた樹

樹

苔むした樹があります。道路のわきの切り立った土手にしがみつくように斜めに生えています。ちょうどこのくらいの危うい角度のまま、ずっとそこにあります。いつからそこにあるのかは知りませんが、今でもそこにあります。昔のままの姿で。

たまにその樹の横を通り過ぎると、昔の光景を思い出します。もう三十年以上も前のことですが、この樹の姿はあの時と全く変わっていません。

小学生のころのある日、学校の帰り道にそこを通りかかると、その樹に寄りかかるようにしてしがみつき、上の方に手を伸ばして「うーん、うーん」と唸り声をあげている同級生の友人の姿がありました。

写真の中央付近の細い方の樹の幹には表皮のあちこちにぼこぼことくぼみがあります。その窪みの一つに小石か何かが乗っかっていました。友人はそこに手を伸ばして唸っているのです。いかにもその小石を取りたくて必死になっているのだと訴えているかのようでした。

いたずら好きのその友人がまたふざけているだけだということはすぐにわかるのですが、下手な演技のパフォーマンスに釣られて近づいてゆくと、友人は小石を取りたいのだがどうしても手が届かない、代わりに取ってくれと言います。

そんなの簡単だとばかりにまんまと乗せられて樹にしがみつき小石に手を伸ばそうとすると、友人は後ろから私を突き飛ばし、切り立った土手の下に落とそうとしたのでした。

友人の悪質ないたずらだったんですけどね。怪我をしてもおかしくないくらいの、ちょっと危ない遊びでした。子供のころはそんなことばかりやってましたよ。

この樹を見ると、今でもそこにしがみついて唸り声をあげている友人の姿が見えます。

その友人は二十代の若さで死んでしまって、今はもうこの世にはいないのですけどね。苔むし朽ちかけた樹だけは今でもまだそこで生きています。

追記(二〇一七年九月九日)

その樹が切り倒されたことを知りました。無念です。

無残な切り株」(裏ポロ)


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posted by アポロ at 18:15 | Comment(0) | TrackBack(0) | 漫録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする